ピーポーピーポー…

救急車「右に寄ってください、右に寄ってください」

ガラガラガラ

心臓マッサージをされながら、酸素マスクをした状態で、小さい子供が運ばれてくる。

全身は真っ青で、目は見開いていて瞬き一つしない。モニターのアラート音が鳴り続ける。

「先生ぇいやだ!先生ぇ!いやだ助けてくださいお願いします助けてください!先生助けてくださいお願いします先生!助けてくださいうちの子を死なせないでください先生お願いします先生!」

そう叫んで母親は失神した。

フロアのベッドに移動、迅速な蘇生処置が開始される。

小児科医がまず気管挿管を試みる。研修医はアドレナリンを希釈し準備をする。 手の空いた研修医は手、足、いたる血管にとにかくルートを確保、カリウムフリーの輸液をつなぐ。側管からアドレナリンを入れる。ここで正確な時間を測る者が必要だ、電波ソーラーのG−SHOCKをつけている研修医はアドレナリンを片手で持ちながら時計を見つめ、大きな声で時間を言う。

同時に看護師が採血を行い、別の看護師が蘇生の時系列を記録していく。ルートを入れ終わった研修医は検査室に電話し検査結果が出次第すぐに電話するよう指示する。

少し考える余裕が出てきた者は原因を考え、少しでも思いついた者は意見をリーダーに伝える。医師総動員で原因を考える。挿管し終わった小児科医は原因を探るべく両親に話を聞きに行く。 

これらを数分、少なくとも3分かからずに行う。

しかし、完璧で迅速な対応にもかかわらず、助からない時もある。

子を亡くした母親は泣き崩れ錯乱し暴れ、やがては力尽きボーッと一点を見つめて何かをブツブツとつぶやき始める。そのまま眠ってしまい目が覚めては「これは夢だ」と思い奇行に走る。そうなっても無理はない。

僕はこれまで、医者という仕事は、基本的に希望と安心を与えることができる仕事だと思っていた。

「心配していたような悪い部分は無いですよ。」
「少しここが悪いけれど、これこれこうしていれば良くなるよ。」
「ここは確かに悪いけれど、入院してちゃんと治療すれば良くなるよ。」

しかし、そうとも限らないという事がわかった。同時に、絶望を伝えなくてはいけない時もある。そして、その絶望を隣に感じつつも、かすかな希望を信じて最も効率の良い蘇生を行わなくてはならない。そのために冷静さを失ってはいけない。1ミリでも心を動揺させ数秒ですら無駄な動きをしてはいけない。 

僕は初めて幼児のCPA、死を体験した。

はっきり言って子供の命は重い。

子供には未来があり、僕ら人類の宝である。彼らは未来が期待されており、まさか死ぬなんて誰も思っていない。サバンナでヌーの子供がハイエナに食われているのを見るとそうでもないかと思うが、少なくとも現代社会では、死の予感から最も遠い存在だと思われている。

そんな子供の死は、まさに絶望である。絶望と隣り合わせの中、医者と看護師の一挙手一投足に命がかけられる。希望と絶望、天秤がどちらに振れるか、それはスタッフの行動がどれほど冷静にコントロールされるかで決まる。

まるで死神とダンスをしているようだ。死神と一緒に踊って、踊りを死神に逐一チェックされ、少しでもズレたら即天秤は「絶望」に振れる。監視されながらミスなくひとつひとつ確実にでも迅速に行う。そんな緊張感が漂う時こそ、冷静さがより必要だ。 

そして、もし絶望の闇に落ちた時、それを伝えなくてはいけないのも医者だ。医者は希望や安心を0から作り出し与えるのではなく、希望と絶望の狭間で、少しでも天秤が希望へと振れるような手伝いをするだけなのかもしれない。